湧産遊山−2「 ねこのて 」 

   

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私個人の本年(2012)を漢字一文字で表すなら「変」である。

年初めに海辺から山里への移転があり、家具も人間関係も仕事も整理して内外の環境は大きく変化した。

 そして私が引っ越して来るのとシンクロして、前の前の家が空き家になり、今は更地になっている。

裏の裏の古民家も更地になった。

続き様に暮れも迫った頃、隣りの管理していた土地が売れて別の家主の手に渡り、

今は実家の裏の何十年も空き家だった家屋が取り壊されて更地になる音が響いている。

わたしの個人史の「変」は外回りへとシンクロしていく。そして本年の世界はアセンション(世界の終わりと始まり)

がかなり前から囁かれていた。これは映画的なスペクタクルではなく内的な変化、科学的な発明だと私は理解している。

しかし、変わらないものがない以上 、なにも一時期にまとめて変化しなくても、古来より、いろは歌の深淵な意味からも分か

るように世界は常に変化している。

色は匂へど   この世のものは有るように見えて 

散りぬるを   何時かは散ってしまう 

我が世   今のこの世で 

誰ぞ常   何か変わらないものが有るだろうか 

有為の奥山 今日越えて   関係性によって成り立っているこの世界を今、超えて往こう     

浅き夢見し 酔いもせず   この世に生きる事は酔わないで浅い夢をみているようだから   

 

「湧産遊山」 ゆうざんゆうざん とは生まれ湧いてくるものの中を山歩きする事だが、

掛け言葉が、その事自体も、湧いて来たコンセプトである事を示している。

すべては共時的に双子化して私に指針、行くべき道を指し示す。

双子的でなければ、私はその方針に従わないだろう。人生の山の追分で二股に

なった道で迷った時などは、なおさらその啓示を待つ事になるのだから。

しかし、すべては遣ってくる事だとしても、人智人力は尽くさなければならない。

天命を聞き人智を尽くすのであるから結構忙しいのである。

そう言う時にこそネコの手も借りる事となる。

 共時性の芸術、「絵画生物」は元々しっかりとした完成のイメージなどもたずに制作されるので、

「ネコの手」はかえって創作の指針となるのである。計算して描けば描くほど絵は下手になってゆき、

自らその醜さを確保してゆく。

 計算し尽くさなければならないロケットや最新の医療機器でさえも想定外の出来事にもろくも崩れ去るのだから。

「あちらに見えます崩れた岩は、猿石と申しまして猿の姿に見えるのでございます。」は形態的な駄洒落ではあるが、

それがその時その人の心の重要性と結びついた時には共時的出来事となりうるのである。

崩れた岩が猿に見えるか瓜に見えるかは見ている人によってづれて来て、各自その人の心の方向によっても

見え方がちがうのだ。そうした千差万別の中を今日も我々は散歩に出かけようじゃないか。

 

201212  そらしま 

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●このページの音楽仕様/音楽生物 [synchronix]

組曲「irohanihohedo02」2012/11

芸術生物研究所