2005年度観劇 NOTE-02(05.1〜05.12)
其の-3 by ありんす・アリス

タイトル 上演期間 観覧日 場所

内容

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感想
1〕

横浜トリエンナーレ2005

アートサーカス「日常からの飛翔」

2005年9月28日(水)〜12月18日(日)

10月13日(木)

PM1:00〜4:00

横浜山下埠頭

3号4号

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.http://www.yokohama2005.jp/

感動には三種類があり、技術に対するもの、センスに対するもの、知性にかんするものだ。現代芸術は作家の技術、センスを取り払った分だけ知性に対して責任がある。観客の知的感動を引き出さない限り意味をなさない。今のこの手の芸術はそれが極めて弱いのだ。

クリストに代表されるように梱包というコンセプトが巨大化し、確かにそれは大きくなった分だけ政治化するだろうが、我々、見ている方の内部は政治化も拡大もしないのだ。

ここで多く語られているキュレ−タ−のコンセプトでもあろう未完と参加型のインスタレーションが、作家性、作品性の放棄であるならば、エンターテイメントやスポーツ観戦では入場料払い戻しになる。

今回は西アジアや中国の作家も多く、彼等は若いし日本の我々観客が60年,70年に見て来た熱気溢れる現代美術のうなされるような熱気を知らない。彼等にとっては新しいが我々にとっては懐かしいどこかで見たようなものである。

当時と比較すればやはり金のかかっている分だけクオリティ−とスケールが上がったのと、テクノロジーの進歩で機械的な技術が向上して、その応用が多彩になったに過ぎない。当時は現代美術などにスポンサーも着かなかったし援助もなかったからだ。

これからこの手の表現がどうなって行くかは極めて心もとない。大衆を巻き込むエンターテイメントな力もなく、かといって知的な革新性の方向をも向いていないのだ。ハードばかりか進歩する今日的現状を無意識に全体が表現している。

2)

篠原有司男展

ボクシング・ペインティングとオートバイ彫刻

9月17日(土)〜11月6日(日)

10月17日(火)

PM12:00〜3:00

神奈川県立近代美術館 鎌倉

雨の鎌倉にもっとも似合わないものを見た。日比野段ボールアートの元ネタ、長老牛ちゃん段ボールバイクである。

鎌倉八幡宮の庭をバックに毒々しい海中生物のような蛍光色に発光するそれらは今日の現代美術の弱々しさをあざ笑うかのように、性豪のリビドーが創造に変わる瞬間をポリエステルで固めてしまったかのように鎮座していたのだ。印刷物で見ると分からないが蛍光色が多用され、ポリエステルでテカテカのそれらはほんとうに濡れた海中生物のようなのだ。しかしでたらめに子供が工作したのとは違う彫刻的な骨が付いている。これはプロフェショナルな仕事である。恐らく重量も相当あるものと思われ巨大である。

思わず笑ってしまう程エネルギッシュで見ている方も元気づく。勿論それだけである。元気付く感動。アートは精神の医療でもあるのでそういう薬があってもいいのだ。

3) DVD映画鑑賞 2005年10月23日

「ざくろの色」

THE COLOUR OF POMEGRANATES

1971年

セルゲイ・パラジャーノフ (SERGEI PARADIANOY)

おくればせながら見たのだが、これはすばらしい。スターリニズムによる14年の投獄によるブランクと健康剥奪による世界的損出の証明。

オリエンタルな古書の細密画を見るような緻密さ。アルメニア、グルジェア人のもっとも遠い文明が日本であるように我々にとってももとも遠い文明、ヨーロッパキリスト教以前の記憶の不思議がここにある。この監督にはルネッサンス以降の遠近法ではない我々アジア人にも親しみのある空間概念がある。オリエンタルと融合したヨーロッパ美術と音楽がどこかフェリーニ的だ。フェリーニから俗悪性とキッチュを引いた感じ。デヴィッド・リンチやシュヴァンクマイエルとも共通するのは一種の魔法性だ。

とにかくストリ−性は稀薄なのと、演技もダンス以前のパントマイム的で、台詞もすくないので、環境ビデオのように話しを追って見たく無い時にインテリアとして流しておくのにはもってこいだ。監督には悪いけど。

「スラム砦の伝説」

1984年

セルゲイ・パラジャーノフ

(SERGEI PARADIANOY)

出獄して製作したグルジア民族時代劇。モダニズム的手法もふんだんに使われて映画とはまず始めに動く絵であった事を思い出させてくれる。しかしロシア語の翻訳音声は邪魔だ。デジタル的に削除出来るのが望ましいがこれもロシアのプライドなんだろうね。散々いじめといてね。タルコフスキーにしてもこのアルメニア人監督にしてもいじめられた側のほうがロシア文化的に傑出した貢献をしているのは皮肉だ。タルコフスキーに比べると台本の文学性と照明の重厚さは軽いが、より映画をイメージとして捕えており現代的だ。

フェリーニ、ヴィスコンティ、ゴダ−ルなどの抗議運動がなければ助からなかったかも知れない氏の仕事に敬意をはらいつつ、1990年に亡くなった氏の表現の命がけを改めて確認したしだいである。

「MAX アドルフの画集」

2002年

スピルバーグと組んでた脚本家メノ・メイエスの監督デビュー作。ヒットラーと片腕のユダヤ人のギャラリストの友情話。

ヒットラーを中立的に描きユダヤ人の多いハリウッド映画界ではギリギリのところ。アーチスト上がりのヒットラーの側面を彼のこれから作り上げる悪夢をむしろ作品として捕らえている所が問題作たる所以。しかしさらっと逃げていてそれが劇場映画たるところ。

「茶の味」

2003年

原作・脚本・監督・石井克人

無邪気でいいんじゃぁない。初恋の転校生は女王のように君臨して、家に帰ればアニメーターくずれの一家が縁側で静かにお茶を飲む。安っぽいCGもキッチュまでは行って無くてほんとうに安っぽい。中間に入れ込んだ小池健のアニメの実写が救い。浅野のダルイ感な演技を取ったら何も残らず。

「BIG FISH」

ティム・バートン

無邪気でいいんじゃぁない。じいさんのホラ話が映像化されて、最後には魚になってしまうシーンが導入部とつながってめでたし、めでたし。ティム・バートンは内容が無い分映像にもっとこらなきゃ。

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[MAIND GAME」

原作;ロビン西

アニメ;森本博司

監督;湯浅政明

アニメは絵のセンス、テンポが良く最高の出来だ。絵の表現形式もポストモダンな多重的なコラージュで新鮮。アニメのあらゆる形式が同居している。話も荒唐無稽でトリッキーで夢化しているが童話的で大人の鑑賞には適しているとは言いがたい。吉本のタレントを起用して成功している。ヤクザの親分と主人公の電話での掛け合いの台本が旨く出来ていた。惜しいのは音楽がまとも過ぎる事。センスの良いものとはいいがたいし新鮮味もない。アニメはCGとの差別化の方向へ向かわなければ生き残れない。それはCGのようにリアルな方向ではけしてない。

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4) 11月吉例顔見大歌舞伎 平成17111 (火) 初日
25
日(金) 千穐楽

114日(金)

昼の部11;00〜

3F3-16

一、
息子 (むすこ)

金次郎
染五郎

捕吏
信二郎

火の番の老爺
歌 六

話題とみどころ
師走の雪の夜。火の番小屋の偏屈な老爺(歌六)のもとに、捕吏(信二郎)が立ち寄り、続いて大坂から来たという金次郎(染五郎)が訪れます。追われる身のこの無頼漢が、まさか九年前に別れた、生真面目な我が子だとは・・・。小山内薫が、スコットランドの劇作家ハロルド・チャピンの一幕物を翻案し、六代目尾上菊五郎が初演した佳品。シンプルな中にも、深い余韻が残る心理劇です。

二、
一谷嫩軍記
熊谷陣屋 (くまがいじんや)

熊谷直実
仁左衛門

源義経
梅 玉

藤の方
秀太郎

堤軍次
愛之助

伊勢三郎
宗之助

駿河次郎
吉之助

片岡八郎
桂 三

亀井六郎
由次郎

梶原景高
錦 吾

弥陀六
左團次

相模
雀右衛門

話題とみどころ
息子の小次郎とともに一谷の合戦に臨み、平敦盛を討って帰還した熊谷直実(仁左衛門)の陣屋に、敦盛の母藤の方(秀太郎)と、直実の妻相模(雀右衛門)がやって来ます。ともに我が子の安否を気遣う二人を前に、熊谷は敦盛の最期の様子を語って聞かせ、討ち取った首を御大将の義経(梅玉)に差し出します。が、それを見た二人の母は驚愕。首は、小次郎のものだったのです。我が子を身代わりにして戦功を立てるも、世の無常を感じて出家する武将、熊谷。義太夫狂言ならではの濃厚な見せ場の数々に加え、深い悲しみを湛えたひとりの人間の姿を、仁左衛門が克明に描き出します。

三、
舞踊 ; 雨の五郎 (あめのごろう)
     うかれ坊主 (うかれぼうず)

『雨の五郎』

曽我五郎時致
吉右衛門

話題とみどころ
父の敵討ちを前に、雨の中を馴染みの傾城・化粧坂の少将に逢いに行く曽我五郎(吉右衛門)。キリッと力強い荒事師の五郎が、ふと見せる艶やかな風情が魅力の舞踊を、吉右衛門が二十九年ぶりに踊ります。


『うかれ坊主』

願人坊主
富十郎

話題とみどころ
願人坊主(富十郎)は、門付けで芸を見せて歩くのが生業です。素肌に薄い十徳(羽織)一枚という、ごまかしの利かない出で立ちでの、軽妙飄逸な振りの数々。舞踊の名手・富十郎の至芸を堪能してください。

四、
人情噺文七元結 (にんじょうばなしぶんしちもっとい)

左官長兵衛
幸四郎

女房お兼
鐵之助

手代文七
染五郎

娘お久
宗之助

家主甚八
幸右衛門

手代藤助
錦 吾

鳶頭伊兵衛
友右衛門

和泉屋清兵衛
段四郎

角海老女房お駒
秀太郎

話題とみどころ
左官の長兵衛(幸四郎)は、腕はいいのに博打好きで働かず、女房のお兼(鐵之助)と喧嘩が絶えません。そんな様子を見かねた娘のお久(宗之助)は、自ら吉原に身を売る孝行娘。さすがに猛省した長兵衛が、お久と引き換えに得た五十両を懐に家路を急いでいると、身投げしようとする和泉屋の手代文七(染五郎)の姿が目に入ります。売上金五十両を紛失した詫びに死ぬしかないという文七に、長兵衛は‥‥‥。三遊亭円朝の口演を歌舞伎化した、おなじみの人気作。近年、江戸世話物への積極的な取り組みをみせる幸四郎が、初役で長兵衛に挑みます。

歌六と染五郎の演技だけで見せる一場物。スコットランドの劇作家ハロルド・チャピンの原典は読んで無いが、おやじが訪ねて来た罪人が息子だと分かっていて、岡っ引きに追われる息子を見てみぬフリで家に入ってしまうのは演出的にどうかなぁ、もっと落ち込んだハラの芝居が欲しかった。

若手染五郎の演技の安定性を定着する演目の一過程ではありました。

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前に見た幸四郎、芝翫の一谷嫩軍記と比較できた。

最後の三味線一本のソロでの引っこみの場面は長めでよりダイレクトに世捨て人の苦悩を表現した仁左衛門これは若い人にも分かりやすかったかも知れない。しかし“人生が夢である”と言う自覚は後ろ髪を世俗に残さないスッキリ感にした方がいいのでは。

中央セリからの出。吉右衛門踊りはうまいのは当然としても、うますぎてあまり印象に残らなかったのはなぜか。

これは少し長めに感想すると、長老富十郎はほとんど裸で踊っている。日本舞踊の衣装性を取り払ったダンスなのだ。能の素舞でもハッとする舞いの形が見える事がある。つまりダンスの骨が見えるのだ。しかし能でははだかになる事はない。だが歌舞伎のこの老人ははだかだ。はだかで踊る老人はジャワや雲南などの南方の記憶めいて、素踊り中の素踊りだ。60年踊って来た人でしかできない所作なのかも知れない。

この踊りはカッポレやどじょうすくいのようなお座敷芸のユーモアのあるダンスで、あてぶりや所作がネックレスのように繋がったポストモダン性が潜在しているダンスだ。

円朝のこの噺は100円ショップのCDで売っていたので聞いていた。

真面目な幸四郎はこの演目では抜く所は抜いていて、それが落し噺が原典だからの計算なのか、そろそろそういった洒脱な境地に演技が入っているのかは私には分からない。だが幸四郎は落語の話でも客を泣かすe技量は健在だ。これからの課題はやはり洒脱性だ。ラマンチャの男が狂気からフッと抜け出ているのを見せると本当にすばらしくなる。

5)

生の芸術 

アール・ブリュット展

2005.9.27(木)〜

11.27(日)

2005.11.4(金)

PM5:00〜

資生堂

ハウス オブ シセイドゥ

スドネック・コセック(1949〜 チェコ)植字工

これは君の目に見えるようなポルノではない。コセックの霊的天気図である。「リビドーな雲間に覗く乳首太陽輝くの図」である。彼は眠る事は出来ない。窓辺で天気を支配、運転しなければならないからだ。倒れたら入院し、出院して天候を記録運行する繰り返しが天命なのだ。(資生堂のアール・ブリュット展には非展示作品)

マルティン・ラミラス(1885〜1960,メキシコ)鉄道工夫

この空間は何だ。モノトーンなメキシコテキスタイルのグラデーションの記憶と、SFなる神話集合無意識だ。色を塗って無い心の等高線。(資生堂のアール・ブリュット展には非展示作品)

とんでもないものを見てしまった。これは私にとって最上級の褒め言葉である。

今、雑誌等で宣伝されている“ハウス オブ シセイドゥのアール・ブリュット展”である。日本ではアウトサイダー・アートと呼ばれる精神病患者や知的障害者、霊媒者、幻視者などの作品展。かつて世田谷美術館でのものよりは規模は小さい個人コレクションではあるが、作品の憑依力はエネルギッシュだ。おまけに最近めずらしく無料である。スタッフの女の子も親切である。これは不景気な世の中の最後の企業的良心か。興味のある向きは新潮社「芸術新潮」11月号での特集を本屋でごらんあれ。小さな展覧会なので地方周りはおそらく無いだろうから。

もはや近頃では健常者の作品ではインスパイアしないのはなぜだろうか?いまでは有名人のヘンリ−・ダ−ガーの少女塗り絵的妄想画や大家ゾンネンシュターンの過去にも目にしていたものにまじって、私の注目したのは以下の4人だ。

アナ・ゼマンコヴァ

(1908〜1986.チェコ)鬱病と糖尿病で両足切断の主婦。

写真コピーでは分からないが色彩がクレーのように淡く発光していて、思ったより小品でそこにあったのはタバコの大きさぐらいのものだ。しかしこれが故意にエンボスのような凹凸が付けてあったり、パールのマニュキュアのようなものが塗ってあったり、ラインストーンが付けてあったりと不思議な花園が宝石化しているのだ。

ジャンヌ・トリビエ(1869〜1944)生地屋店員、交霊術会を切っ掛けに発病。

刺繍による日常的マンダラ作品。これはもう手芸という手法を用いながら、作品ではなく縫い付けられたリビドーだ。色はきれいだが作品化しようという意志はまったく見当たらない。

オーギュスタン・ルサージュ(1876〜1954,フランス)炭鉱夫、交霊術会を切っ掛けに発病。

これはもう5分と見つめていられない。50号位のキャンバスに油彩でコインくらいの柄がびっしりと細密に描かれており、見るものにもその緊張が伝わって来るからだ。色彩はあまり綺麗ではなく、構図も未完成だ。これは狂気の努力賞なのだ。

ラファエル・ロネ(1910〜1989,フランス)路面電車の車掌,交霊術会を切っ掛けに霊媒師に変身。

最も好きな作家で、繊細過ぎるほど繊細で心霊的だ。唐草的にイメージが溢れ出て来る記録を、少しの落ち度もなく、細い鉛筆でドローイングして記録して行く。緊張が病的を超えて美に到っている。この鉛筆のミニュアチュールは彼が世界を1mm単位のユニットで見ていた事が分かる証拠品だ。

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と、言う訳でこれらは、もはや常人の作品には知性も霊性も感じなくなってしまった私の唯一の遠くに見える明かりであり、私の内部を変革してくれそうな魔法達なのだ。知的な飛び方ではなく感覚的にもって行かれるのを、地上にしがみつきながら辛うじて観覧した、見せようとする突飛さではないぶん強力な狂気だった。
6) 児雷也豪傑譚話 (じらいやごうけつものがたり) 2005年11月2日(水)〜26日(土) 2005年11月12日(土)11;00〜

新橋演舞場

3F-1-32

児雷也
尾上 菊之助

大蛇丸
尾上 松緑

綱手
市川 亀治郎

高砂勇美之助
八鎌鹿六女房お虎
尾上 菊五郎

原作
河竹 黙阿弥

脚本
今井 豊茂

演出
尾上 菊五郎

菊五郎による斬新な演出と大胆な脚色によって新たな息吹をふき込まれた『児雷也豪傑譚話』に松緑・亀治郎・菊之助の花形俳優が集結!

幕府の執権職に任じられた月影郡領は、武勇に優れた若者・大蛇丸(松緑)を養子に迎えます。しかし、実はこの大蛇丸こそ、この世を魔界にかえようと企む蛇の化身でした。その妖術に操られた郡領は、盟友である大名・尾形左衛門と松浦将監を滅ぼし、尾形の嫡子・雷丸と松浦の息女・綱手姫を谷底へ突き落とします。

しかし仙人の仙素道人によって命を救われ、二人は育てられます。やがて成人した後、雷丸は児雷也(菊之助)という名と蝦蟇の妖術、綱手(亀治郎)は蛞蝓の妖術をそれぞれ授けられます。そして大蛇丸の野望を打ち砕くため、その鍵となる名剣・浪切丸を求めて旅立ちます。一方、成人した大蛇丸も今では月影家の主となり、絶大な権力を振るっていました。

義賊となった児雷也と綱手は、幾多の困難を乗り越え、浪切の剣を手に入れるため、硫黄の噴出す地獄谷へと突き進みます。そこでふたりを待ち受けるものは‥‥。

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【解説】
河竹黙阿弥の原作に大胆な創意を施し、児雷也・綱手・大蛇丸の三人の妖術使いの戦いが宙乗り、だんまり、立回りなどの歌舞伎独特の演出と大胆な発想で醍醐味溢れる作品となっております。松緑、亀治郎、菊之助の三人の花形俳優が舞台狭しと活躍し、高砂勇美之助を演じる菊五郎が舞台に華を添えます

菊五郎による演出がここまでエンターテイメントに徹すれば何も言えない。通ぶって演技論を差し挟んでも笑い声が聞こえて来そうだ。ただ旨いと言われている亀蔵がハラの演技が先に出て台詞廻しがつかえるのは味なのか体調が悪いのかは私には分からない。

音楽音響にもその方向の工夫が見られる。シースルーの描き絵幕の効果も旨く使われてプロジェクターでの映像映写もありモダン風な味がでた。ただ新橋演舞場は舞台が歌舞伎座、国立劇場より小振りでスケール感が弱い。

しかし、きぐるみファンの私としても大満足。ビニールのナメクジからよくできたタカが宙を飛び、カエルとヘビがスモーク多用のなかで動き回り、ガマもミエを切る。ここで良く分かるのは、こういったミエを切りにくいものの芝居が逆に歌舞伎のメリハリにミエがいかに大きな役割をしているかを見せる事である。話内容がいかに幼稚でもミエを節のように入れる事によって歌舞伎になるのだ。これは幕末木阿弥のエンターテイメント特撮ものだ。ウルトラマンでは光学的な光線がミエの代になる。

四場ニ幕目の八鎌鹿六屋敷の場も現代をパロった喜劇でストーリーがステレオに進行し面白いアレンジで若い客に大ウケ。

大詰のモダンダンス風火の粉の踊りも山崎咲十郎の棒タテに力があってキリっとしていた。衣装もこの幕だけは赤の世界に白黒の墨絵風の柄で統一してメリハリがあり綺麗。不景気な年末にふさわしいパーと大騒ぎでした。

7)

映画

ハックル Hukkle

2005年10月22日(土)〜29日(火) 2005年11月12日(土)PM5:00〜 渋谷 シアター イメージ・フォーラム

2002年ハンガリー映画

監督;パールフィ・ジョルジ

75分

あるスジで評判になっていたので見てみたが案の定言われている程ではなかった。

大雑把にいえば「ノイズミュージックのビデオクリップを75分に延ばして事件ぽいエピソードシーンを所々に入れ込んだ感じ」でそれらしい事件性の余韻を残してナゾのまま終わらせたといった感じだ。

コマーシャルフィルムのように編集テンポが良く、リズムで最後まで見てしまう。ミュージッククリップと言った所以である。この形式で次々と作られても困るが、この映画のために死んだネコのためにも、これはこれで現代映画の中では小さなエポックだと言っておきたい。

だがこれならばケミカルブラザーズの車窓をワンショットで撮りっぱなしにしたシュールなリピートする風景のビデオクリップの方が上だと思うのだが、そう思うのは私だけだろうか。

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