2005年度観劇 NOTE-03(05.1〜05.12)
其の-4 by ありんす・アリス

タイトル 上演期間 観覧日 場所

内容

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感想
1〕

十二月大歌舞伎

昼の部

平成1712月2日 (金) 初日
26
日(月) 千穐楽

12月6日(火)

AM11:00〜PM4:00

歌舞伎座

3F-2-14

一、
御所桜堀川夜討

弁慶上使 (べんけいじょうし)

武蔵坊弁慶
橋之助

侍従太郎
弥十郎

腰元しのぶ
新 悟

花の井
竹三郎

おわさ
福 助

話題とみどころ
義経の子を懐妊し、乳人の侍従太郎(弥十郎)の館で静養中の卿の君のもとに、武蔵坊弁慶(橋之助)が、頼朝の上使として訪れます。その命は、平家出身である卿の君の首を討てというもの。侍従太郎は、腰元しのぶ(新悟)を身替わりに立てようとしますが、しのぶの母おわさ(福助)は、十八年前に一度だけ契った、しのぶの父にあたる人に娘を会わせるまではと、頑なに拒みます。実はその相手こそ、弁慶だったのですが……。女性と契ったのも大泣きしたのも、生涯にただ一度きりだったという弁慶。隈取り姿の豪快な荒事師が、心ならずも娘を手に掛け、「三十余年の溜め涙」と泣き崩れる。こってりとした味わいの義太夫狂言に、橋之助以下全員が初役で挑みます。

二、
猩々 (しょうじょう)
三社祭 (さんじゃまつり)

猩々・悪玉
勘太郎

猩々・善玉
七之助

酒売り
弥十郎

話題とみどころ
【猩々】
水中に棲み、酒が無類に好きな聖獣、猩々。酒売り(弥十郎)が酒を用意して待っていると、まもなく少年の姿をした二匹の猩々(勘太郎・七之助)が現れます。酒を酌み交わし、興に乗って舞いを見せた猩々は、親孝行な酒売りに汲めども尽きない酒の壺を与えると、何処へともなく姿を消します。
【三社祭】
宮戸川(隅田川のこと)に浮かぶ船に、網を打つ二人の漁師(勘太郎・七之助)。山車人形風のこわばった動きの後、二人は魂を得たように、機敏で滑らかな振りで踊り始めます。颯爽として優雅な猩々の舞いと、スピーディーで躍動感溢れる三社祭。
対照的な舞踊を、息の合った勘太郎・七之助兄弟が踊り分けます。

三、
盲目物語 (もうもくものがたり)

弥市
藤吉郎 後に 秀吉
勘三郎

柴田勝家
橋之助

浅井長政
段治郎

侍女真弓
笑三郎

文荷斎
薪 車

鬼藤太
源左衛門

若狭守
桂 三

蜂須賀
由次郎

河内
男女蔵

朝露軒
亀 蔵

お茶々 後に 淀君
七之助

お市の方
玉三郎

話題とみどころ
兄・織田信長に政略結婚させられたうえ、夫の浅井長政(段治郎)を殺されたお市の方(玉三郎)。その傷心の日々を慰めるのは、盲目の弥市(勘三郎)の療治と唄でした。弥市は密かにお市を慕っていますが、美貌のお市には、柴田勝家(橋之助)と木下藤吉郎(勘三郎)も、想いを寄せています。お市は勝家を選び嫁ぎますが、藤吉郎に攻め込まれた勝家とともに、自刃してしまいます。五年後。藤吉郎は豊臣秀吉と名乗り、お市の娘お茶々(七之助)を側室に迎え、心を癒しています。そして弥市は、落ちぶれの身をもてあましながら、いつまでもお市を想い続けていました。谷崎潤一郎の同名小説を、宇野信夫が脚色・演出。まさに適役の勘三郎・玉三郎コンビの当たり狂言であり、「思うともその色、人に知らすなよ」と唄う弥市の哀切さが、いつまでも胸に響く名作です。

娘を弁慶である父親にそれとは知らず殺された福助が狂わんばかりにくどき踊る福助の独り芝居の演目。私は福助ファンなので文句はないが、くどきの踊りが少し長過ぎるかも知れない。しかし弁慶の橋之助も迫力があり二人のメリハリが出た。

幕引きの後の弁慶の自分の娘の首を持っての花道の入りはやはり年期を積まないと人生的哀愁はでないよね。

能の演目からの歌舞伎的アレンジ。

猩々はギリシャのバッカスのような酔っぱらいの妖怪だ。妖怪と言うのは人間の日常的な精神状態の擬人化だ。つまり酔っぱらった心だ。猩、猩、猩々寺のそれだ。それがとっくり持ったたぬきにダブって来る。

兄弟二人オレンジの衣装で統一。これは赤ら顔からの連想だ。能の猩々面も赤いのだ。国宝の有名なものはコケティシュでチャーミングだ。能面の中では珍しいキャラクターだ。狂言の面にはかわいい物はあるけどね。

酒壷のグリーンと衣装とのメリハリが綺麗。

これはまあ結構ハードな躍りで、若いうちならではの元気いっぱいな感じはでてました。勘太郎はおやじに似て来たね、顔付きも所作も。

谷崎潤一郎の小説が原典。

勘三郎と玉三郎の三味線と琴のセッションが聞ける演目。それも中間とラストの二回もの大サービス。出来れば違った曲にして欲しかったが役者はミュージシャンではないので一曲が精一杯。忙しい二人は二曲練習している暇はなさそうだ。勘三郎よりも玉三郎のほうが楽器は旨いが玉三郎は勘三郎より職人的でなおかつ色気があるのがすごいよね。おばちゃんのアイドルたる所以である。勘三郎は洒脱性と前衛性だ。ここに福助の職人的色気があって三点セットだ。

秀吉をしかる玉三郎は女の恐さをよく表現しており、これはもう女だよね。

勘三郎の二役の早変わりが多用されてトリッキーな味が出た。勘三郎の甘えた感じの台詞まわしが谷崎文学のマゾっぽい感じにフィットする。

ラストのセッションはホタル飛び交う夜の湖の上に死んだ玉三郎の琴を弾く姿が浮かび上がる幻想的な演出だった。谷崎文学はちょっとトリップ幻想も入っているからね。

2)

12月文楽鑑賞教室

「鬼一法眼三略巻」―義経と弁慶―/「新版歌祭文」

12月6日〜12月18日

12月(金)

2;00〜

国立小劇場

3f-17-6

「鬼一法眼三略巻」―義経と弁慶―

作・長谷川千四

有名な牛若丸と弁慶の五条橋での出会いの場

「新版歌祭文」

作・近松半二

久松おみつの心模様の場

文楽入門的な初心者を対象とした文化教育の一環として行われている公演を弁慶つながりで最後列で見た。前列の半分が女子中学生の客で普段ではおめにかかれない反応付きである。何を見てもおかしくてしょうがない年頃の団体は黒いイカのような黒子の口上を聞いただけでうふふ、あははと反応する。演者も若手中心で普段とは違う延び延びとした感がある。学生の客とミスマッチするかのように最後列にはこれもめったにお目にかかからない「まってました!」と声をかける通もおり、客層が面白かった公演ではありました。演目はやはりダイジェスト版的一場もの風である。映画でいえば予告編的紹介でやはり文楽は通しで見なければと痛感した次第。しかし昼メロ的展開の野崎村の段は女学生も興味シンシンで静かではあった。

文楽は国家的保護の今の組織からまた昔のように若手のグループが独立分派し私設の小屋を立ち上げてくれば面白くなる。国立的運営ではアカデミックにならざるを得ないし文化的伝承に重きが置かれるので新しい新作的創造がないのだ。歌舞伎のようにセットや衣装の独立した創造意欲も稀薄だ。美術に独立した作家性がない。人形も能面のように権力からの多大な保護の歴史が無い分芸術作品化しなかった。能面のように使わなくても憑依しているような凄みにまでは達していないのだ。ともあれこのように若い世代に対しての地味な教育が客層のそれこそ伝承に寄与している。伝承とは、やる側の継続だけでなく、実は客の伝承でもあるのだ。

3)

国立劇場十二月歌舞伎公演


通し狂言 天衣紛上野初花」くもにまごう うえののはつはな

12月3日(土)〜25日(日) 12/17(土)12:00〜

国立大劇場

3f-10-43

作 河竹黙阿弥

[上演内容]


◇序幕:上州屋見世先の場


◇ニ幕目:吉原大口二階廻し座敷の場

吉原大口三千歳部屋の場

吉原田圃根岸道の場


◇三幕目:松江邸書院の場

松江邸玄関先の場


◇大詰:入谷蕎麦屋の場

入谷大口寮の場


浄瑠璃「忍逢春雪解」清元連中

(上演時間:約4時間30分)

江戸時代末期の江戸の街を舞台にした講談をもとにした河竹黙阿弥作の世話物の名作。お数奇屋坊主・河内山には当たり役といわれる松本幸四郎、河内山の悪事に片棒を担ぐ、片岡直次郎には、初役となる市川染五郎、直次郎の恋人・三千歳は女形として高い評価を得ている中村時蔵が演じる。

あらすじ

江戸城で喫茶・茶礼を差配するお数奇屋坊主、河内山宗俊。彼は立場を利用して、大名から賄賂をもらうなど、したたかな坊主であった。あるとき、大店・上州屋に金をせびりに行くと、名門の大名・松江出雲守の江戸屋敷に腰元として奉公する上州屋の娘が、松江公に言い寄られ軟禁されていると知る。
そこで金のために娘を取り戻すことにした河内山は松江公の屋敷へ赴く。娘を実家へ戻すことを拒む松江公だが、河内山は松江公の日頃の不埒な態度をネタにゆすって見事に取り戻す。帰りがけに重臣により身元がばれるが、臆することなく悠然と立ち去る。

この河内山に協力をしていたのが、御家人でありながら、遊び人へ身を持ち崩した片岡直次郎。直次郎は美しい花魁の恋人・三千歳がいた。しかし、いまや役人から追われる立場となった彼は雪の降る夜中の入谷で三千歳と忍び合う。

後半は直次郎を追う刺客と意外な関わりがあった三千歳。そして、直次郎の弟分の心変わりなどの関係などを絡めながら、ドラマティック直次郎と三千歳の行方を描く。

黙阿弥、世話物の通しだが、さすがに4時間だと現代人にはスペクタクル性が無い分眠くなる。最近は逆にこの「うとうと感」がなんとも歌舞伎ぽくっていいんだよね。寝入ろうとする前意識のおぼろなリアルに芝居が入り込んで、夢だったのか芝居だったのかはっきりしない部分ができる。花道に象徴されるように客の夢と舞台、夢と現がぼけている。

さて、幸四郎の角張った台詞が洒脱に丸くなる言い回しもリズムよく展開するが「毎日メザシばかり喰っていていいアイデアがでない。」風の意の台詞などは、江戸城直属の茶坊主がそんな事言うかねと思うのだが、これは近松、南北、木阿弥と芝居の台本書きは庶民で、武家の社会の本当のところの雰囲気は知らなかったと言う指摘もあるように江戸庶民感覚の御愛嬌。

セットの大名屋敷内は白黒の墨絵と金だけで統一したところが綺麗。玄関先の「まってました。」の声が掛かる河内山の居直り名台詞も快調。

その後、蕎麦屋の場では、蕎麦屋のおやじの所作もリアルでおおうけ。登場する客のあんまの芝居も弱々しさが逆にリアルになっていて良く、市蔵の張りのある芝居と対照的になって場がしまった。

次ぎの吉原の、今で言うホステスの寮のはなれの場での時蔵と染五郎の雪の日のぬれ場も、しっとりとして安定した芝居で、場内がしーんとした。しかしカットされたらしいベッドシーンもえげつなく入れたほうが現代の客のためである。しかしまあ、国立だからね、あんまり下世話になってもね、だが歌舞伎とはもともと下世話な心なのだ。

それとこの場はセットがせまく、奥の間を取り払って広く見せないと芝居が窮屈で恋敵の左団体次の、直次郎に気が付かない芝居が生きない。部屋が暗いという台詞の無理矢理の設定には無理がある。市之丞と三千蔵の近親相姦的オチもあまりピンとこずさらリと通り過ぎ、黙阿弥の「リアルは綺麗事ではないんだよ。」的コンセプトもぼけてしまった。

今回は通ぽい演目で3Fからのかけ声も多く目立ったが、その分若い人が少なかった。

芝居は役者の個人的演技論よりもやはり大事なのは全体としての作品性で、そう言う意味ではこういった黙阿弥でも今となっては地味な演目には、思いきった下世話な演出がこれからの若い客を呼ぶには必要だろう。

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