自然に降りてくる工法や考えによって 起 記 k i k i  

          35    精緻聖地

 

 

 

 
 

「客人 Guest-2017/0801 孫とのコラボ」 F3キャンバスに墨とサインペン by Mitsutaru Sorasima

 
 

 

 しばらくビットコインにかまけていたのと、Macユーザーの昔からの癖で、ウィルス対策を怠っていたために、ノートPC経由でレンタルサーバーのデータが消滅していたので再構築を余儀なくされ、長くブランクが続きました。私などにいたずらしても何のメリットがあるのかと訝られるが、あまりこのようなことが続くようであれば、時代はペーパーレスから文字離れに移行しているので、私もユーチューバーに転身しようかと思っている今日この頃である。

 今年は夏、山、滝へもあまり行かずじまいであったのですが、唯一いつもの水汲み場の奥に、第二の聖地ともいうべき滝を見つけたのでそれをお知らせしておこう。勿論第一の聖地は飯田市の神体が出現した「過誤避けの滝」である。もう一つ犬山城近くの入鹿池の奥のキャンプ場のそのまた奥に幽玄な滝を見つけたのでそれも紹介しておく。

 前記の滝を「三つ滝」と言う。岐阜県郡上市の美並の水汲み場から山道を車で10分位中へ登り入ったところに車を止めて、徒歩で10分位山を登ったところにある。滝は大小四つあり下の段の滝二つは絶景であるが残念ながら道がない。故に到達するには崖を滑り降りるのである。もちろん帰りもはい登らなければ帰れない。上の段の滝場からロープで小滝を濡れながら降りる手もある。そこまでして下の滝まで行く人は数少ないだろうから、いっそうそこは聖地めくのである。瞑想にはもってこいで小滝の滝壺に平らな大きな岩があり、そこに座って食事や瞑想をすれば必ずや滝との一体感が得られるだろう。ここに遊行僧円空が来てないわけがないのである。この辺りは彼の庭であった。写真でおわかりのように小滝から大滝は見えないのであり、水煙だけが逆光に垣間見えるのである。

 

三つ滝入り口付近ーみつ滝下の段へはここから粥川の沢を登って行く方法もありそうだが未経験 粥川は天然ウナギの生息地で禁猟区美並の人はウナギを神聖視し食用としない

 

三つ滝への山道中間付近の無名滝 水量はないが背は高い これも三つ滝同様「粥川」の水源となっている

 

三つ滝への道の終点に現れる最初の滝 奥の滝は10m位ある

 

 写真では広く見えるが実際は狭い渓谷である

 

三つ滝での火の清めの儀 火によって結界を作ると神聖な場所では火のフォルムに色々な型や物語が現れるのである 滝は下降し、火は上昇するエネルギー同士の対峙よる場の中和である

 

 郡上市美並は村の中でもサルなども多く見かけるかなり山奥である。サルの集団が車の道を塞ぐこともある。滝はそのまた山奥なのでクマ出現の危険度もかなり高い。女子、子供同伴には進められない。ここがどうしてそんなに気に入ったかと言うと、主流に向かって右よりもう一つの流れが合流し、そこに瞑想台にふさわしい石がある。また 大小四つの落差が変化に富み、水が綺麗で人を寄せ付けがたいところにあることによる。そのようなところこそ聖地と呼ぶのにふさわしいのである。それは奇跡的な神秘の到来を暗示しているようだ。

 

三つ滝上段部から下に降りた所の下部 ここへは別のルートでしか行き着けない

 

下段へ行くにはこの滝を濡れながら下る手もある 簡単に降りれそうに見えるがヌルヌルの岩肌をロープを使って降りる必要がある

 

三つ滝下段より大滝方向 ここを濡れながら登って行く この辺りは方形の石がゴロゴロ転がってる

 

三つ滝の大滝

 

三つ滝大滝 水量は多く静水である

 

 

三つ滝大滝全景

 

 

 

 下は愛知県犬山市八曽自然休養林内にある八曽滝(はっそたき)。五条川の支流にかかり、地図には「山伏の滝」とも書かれている。キャンプ場駐車場より平らな川沿いの道を徒歩45分奥にあり、あまり気楽にはいけないので人も少なく滝周りのロケーションもこじんまりした綺麗な庭に見える。この滝も「三つ滝」と共に今年の収穫であった。それらは何よりも私の家から一時間程度で行ける近場にあり、滝を見るために一泊する手間と時間が節約できる気軽な聖地である。この滝が明治村の隣の入鹿池の源流となっている。水量もあり水も綺麗である。

 

滝全景  落差は18m

 

八曽滝はっそたき全景

 

八曽滝全景 手前の岩の裾に不動尊が祀られているし別名から言ってもここが修行の場であることがわかる

 

八曽滝全景

 

八曽滝はっそたき全景

 

 滝がなぜそこまでいつまでも面白いのかと思われる向きもあるかと思われるが、人生いろいろやって来て、一番面白いのは神秘であると最近思いあたったからなのである。神秘を目の前にした感動は何者にも代えがたい。感動は神秘に依存している。それは神の技である。神が嫌なら自然と言い換えるが芸術も最終は自然な線やフォルム、色彩に行き着くのである。

 神秘なことが起きるのは山奥であって海水浴場ではない。勿論、生涯の伴侶となるおねぇちゃんと偶然砂浜で知り合うのも奇跡と言えるのだが。しかし人が多く住む場所は雑念も多く飛び交い神秘も希薄である。これからも奇跡と対面する山奥への「神秘狩り」は続くのである。

 

 

 
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組曲「聖山」2017