ゆ め つ な み 5

音泉 - 1

[ 草津温泉 エメラルド火口にて ]

(夢見のための音楽 1007)

 
 

 

 

 
   

 

 

 セツの両親は退院後のセツの様子見と、保養を兼ねてセツを暫く温泉にでも行こうと誘った。断られると思っていた両親はすんなり受け入れたセツに拍子抜けしたが、気が変わらぬうちと思い、草津温泉の日銀と提携している高級旅館に予約を取った。父親は一週間の休暇が取れた。

 実はセツの父親は日銀の重席にいたが、若いうちから仕事の重荷からか精神安定剤を常用しており、それはほとんどジャンキーに近い使用度で、日銀の医務室では有名な人物だった。そういった人格性がセツにも遺伝していたのかどうかは不明だが、おそらくそういった一種の脳波的な乱れは家庭の隅々まで伝播して家という霊界を形作ったのだろう。

 母親もある大手タイヤメーカーの重役の三女で、正月ともなれば旅館の大広間で食事する団体客のように親戚の集まるような家で、まったく世間の現場と言うものを知らず、家事もほとんどが通いの家政婦任せで、家庭というものが食卓を中心にした曼荼羅である事を理解していなかった。そういった歪みもまたセツの精神形成に少なからず影響を与えたのだろう。穴蔵に住んでいた原始時代から人間の家族は食事の時だけに全員が集合するのであって、食料を分かち合う火を中心とした最低限のサークルが愛情の物理化でもあって、その火はやがて神に結実していくのだった。

 しかしセツはそう言った家庭の欠陥も含めて入院中に考えた精神的変化で、それをも容認する事が出来るようになっていた。完全で健康な人間がいないように、完全な家庭といったものもまた無いのだ。あらゆる人間は少なからずどこかが壊れており、その家庭もまたいつもメンテを必要とする家屋のように頼りなく囲われた箱なのだ。

 

 三浦の家を出たのが昼過ぎだったので草津へ着いたのは4時少し前だった。チェックインまでに少し時間があったので3人はそのまま車で白根山の火口まで登る事にした。

 その日は晴れていて暖かく、有毒なガスの発生注意報も出ておらず、山頂のドライブインには数台の観光バスも止まっていた。ドライブインから火口湖までは歩いてそれほどの距離ではなかった。セツはここに来たのは初めてだったのでそのカルデラ湖の色に目を見張った。それは文字どうり天上のものだった。高い山の上というのはそれだけで人間の俗から離れ、動物も住みにくくなるので鳥の声も希薄で、花もさかず、空気も薄く、音も静まり、何か恐いような美を纏っているものなのだ。

 セツはそのエメラルド色の火口を覗き込み瞬きしないでいた。それはまさしく吸い込まれるような白濁した青味がかった黄緑をしており、周りの赤土と対比してこの世ならざる様相をしていたのだ。

 「まぁ、きれい、絵はがきみたいね。」「あぁ、そうだな。」両親の詩情からはもっとも遠い会話が聞こえる。

 セツはこのカルデラ湖である休火山の火口を見つめながら、それは噴火を休んでいるがゆえに静かな休息であり、生まれ出ようとしている溶岩としての鉱物の無意識の表面であり、自分が取り憑かれていた自殺願望も結局は生と死のその中間点、カルデラ湖のような「生まれ出ようとする無意識」へまた戻ってしまう事であると今思い当たったのだ。

 セツはエメラルドの水面を見つめながら、全存在は結局は「存在しようとするループ」を進行するしかない定めである事を看破する。

 「死もまたもっとも長い生の始まり」だったのだと。

 

 
 

 突然セツは両親から離れ、独り火口の周りの道を歩き始める。

 垂直にそそり立った水面にもっとも近い崖の尾根の上の道に来た時、セツは密かに隠し持っていたあの二体の立像のビーナスの方を突然、湖へと投げ入れた。

 それはセツの人生に於いて最大の儀式になった。

 セツはこの白根山の火山湖を自分だけの聖地、集合無意識への物理的な入り口として認証する。そして認証とは命名でもある。詩人セツは「Emeraldoor エメラルドア」と何度も呪文のように呟いている。

 セツは特別宗教的な人間ではないが、計らずも自分だけの宗教のようなものを創り上げようとしていた。投げ入れられたビーナス像は、その密封された金属製の箱のために、人知れず湖に、その無意識に突き刺さった形で、逆さで浮いており、セツは遠くに居る時もその浮いている像を絶えず思う事になった。それは計らずも無意識からイメージを出生させる装置になったのだ。セツはそこから発せられるイメージに絶えず波長を合わせるようになり、いままで遣って来た詩作とは全く違った作品、つまり自動書記による予言を口走るようになる。

 セツの手に入った二体の立像は、元々辰狐の持ち物であり、辰狐が江戸の時代に一生、肌身離さず持っていた物である。しかしこれにはまだ深い因縁があった。

 セツが湖に投げ入れたビーナス像は実はジョン・タイター (John Titor)の持ち物だったのである。タイターは実は三浦の浦島の屋敷から一日前のアメリカへ帰る予定であったのだが、一日という短い微調整に誤差が生じて、あせって何度もタイムスリップを繰り返すうちに、遂には辰狐の住む江戸時代にまで自分の時空間がずれ込んで、アメリカの基点に戻れなくなり、途方に暮れて鎌倉の海を歩いている時に、未来のアメリカで母親から貰った先祖の形見の品の古代ギリシャの彫像を無くしてしまっていたのだった。それがそのビーナスだったのだ。タイターの祖先はギリシャ系の移民であり、その像はもともとギリシャの神殿に祭られていた神体であった。ゆえにそれは過去、現在、未来の往復をくりかしたメタ・オブジェクトであり、まさしく「聖なる物」であった。このビーナス像はギリシャ時代には演劇に使われた小道具でもあった。小道具といっても今の演劇で使われるようなフェイクなニィアンスは無く、その頃の演劇はまだ祭りと娯楽が別れていない一種の神話秘儀を体験する宗教的出来事でもあり、小道具もより本物に近いものが使用された。それはつり下げられて天上がら登場する神そのものだったのだのだ。

 そのビーナス像の金属製の台座の中には誰にも知られずに大粒のエメラルドの原石が入っており、その一部研磨された表面にはギリシャ語で、「上のものは下のもの、下のものは上のもの」が刻まれていたのだ。

 

 

 

 「セツ、そろそろ降りるぞ、チェックインの時間だよ。腹も空いたしな。」

 父親の声が向こうの峰から風に乗って聞こえる。ふだん大声を張り上げた事のない父親の大声をセツは初めて聞き、少し驚いた。久しぶりに子供と一緒の旅行で張り切っているようだ。セツは湖に浮かんだ小さな黒い箱を振り向き振り向きしながらとぼとぼ歩き始める。しかしここは外国ではないのだ。来ようと思えばまた何時でもセツ自身の車で来られる距離なのだ。そう思ってセツは父親のプリウスの後ろの座席に座り込んだ。山を降りる途中の景色も高度と強い風のためかこの世離れした佇まいで、セツは下の温泉街まで飽きずに無言で外ばかり見ていた。時々あまり静かなのを気にして、急カーブに傾きながら母親が前の席から後ろを振り返った。

 湖から離れてもセツにはもう一つの観音像が湖の中のビーナス像と共振して震えているように感じられた。車の振動をそう思ったのかも知れないが、本当にそのハンカチに包まれた立像はセツのポケットの中で震えていたのだった。だとしたらあの湖のなかの逆さの像も震えているだろう。セツとの別れと独り取り残されたエメラルドの孤独の中で。

 旅館に入ってからもセツは親と一緒の大きめの部屋で、その像の事を思い続けた。親は何度も温泉に入るため浴場へ出かけていった。セツは温泉に入る事はあまり好きではなかったので軽く一度だけ入って大きく広いロビーでアイスコーヒーを飲んでいた。となりのフランス人らしいカップルがアイスコーヒーについて批判的に話しているのが聞こえた。セツは少しフランス語が分るのだ。どうやらアイスコヒーは日本の特産物らしい。日本人は熱い冷たいを厳格に味として捉えている。欧米人はそこのところは荒っぽいので冷たいコーヒーが不思議なのだ。

 ロビーではちょうど特別展示場で開催されているアフリカン彫刻展とのカップリングで、アフリカ民芸品の出店が出ていて、セツは何気なく覗いたそのショーケースの中に荒っぽいが力のある木箱を見つけ、ポケットに持っている像を取り出して大きさを見比べてみた。それは丁度すっぽりと収まる大きさだった。ついでに像を包む端切れも探した。抽象的な動物が刺繍された絹地のスカーフが気に入りそれに包んだ像を木箱に入れる事にした。それらを買い求めロビーのソファーでセッティングしてみると、像が和風であるにも関わらず、それらはそのために作られたかのようにフィットした。

 

 
 

 草津には三泊四日居て、近郊の観光地なども父親の車で回ったのだが、セツの気持ちは始めから自らの思考の成熟により安定していたし、何よりも自分の創り出した秘儀が人生最大のエポックとなっていたのでその事ばかり考えていた。それはそうだろう、セツにいままでずっと取り憑いていた自殺願望が呆気なく病院での覚醒によって超越されてしまったのだから。

 両親もセツの内面が安定している事に安心して、自らの観光を楽しんでいるように見える。

 セツはセツで、この観光地でも目にするあらゆるものが、死を止める事ではなくて死の肯定をセツに呼びかけているように見え、その事が逆にセツの自殺願望を萎えさせたので、それがセツの内的な治療の最後の仕上げのようになった。それはセツの翻訳だとこう言っていたのだ。

 「死ね、死ね、死など無い事がわかるのだから。」

 セツは死が無いと言う事は、生もまた無いと理解したのだ。生もまたあやふやな神の見る夜の夢だった。我々の夜の夢がでたらめな物語のように、我々もまた神のでたらめな夢に過ぎないのかも知れないと。それは人の夢ではなく神の夢であるがゆえに物理なのだ。物理もまた神にとっては実体の無いものなのだ。

 では自分は一体何を信じて生きていけばいいのか。

  夢には見られたと言う価値があるのだ。今だ見られていない夢もある。我々は神に見られた夢である。それは存在したと言う事だ。我々は死んでも生きた、存在したと言う事を引きずらなければならない。私が存在したと言うリアル、神の夢は夢として消えないのだ。

 セツはそう自問自答し家路への高速道路の流れて行く風景を抽象画として眺めていた。

 

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 使用されている音楽 [synchronix] は、ギターシンセサイザーによる、ヴァイオリン、サックス、フルート、ウッドベース、エレキベース、録音による尺八、三味線、ドラム、パーッカッション、リアルノイズ音、編集ミキシングはすべて「そらしま」によるオリジナルです。

 何時アクセスされても半永久的に同じフレーズの主題は流れません。一日流れていても飽きのこないアンビエントとして制作されました。

 また使用されている立像 ( ぼける立体 { 暈体土帰 } うんたいどき) はすべて ”そらしま” によるオリジナルで陶器製です。