美術評論「 棚からターナー 共時性の絵画論  (up 20170128~)

宙州光垂  Sorasima Mitsutaru 著

           05    外縁概念

 

              

              

   
 

         ジョセフ・マロウド・ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William Turner 1775−1851) 

1799年、24歳にしてアカデミー準会員、1802年、27歳でアカデミー正会員。この頃の自画像。カンバスに油彩

   
 

 

 さて、ターナーのフォルムと色彩を錬金術的側面から、あくまでも東洋人的立場から検討してきたのだが、最後に芸術制作の重要な始まりであるコンセプトの発想について考えてみる。ただ無意識に創作された作品であれ、その創作衝動には何らかの指針が初めにあったはずであり、ここではそれをコンセプト(創作概念)として話を進めていこう。アクションペインティングのように衝動的、偶然的な痕跡であれ、初めは偶然性をよしとする決意があり、それをその芸術家のコンセプトとしてもいいのだろうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ではターナーのコンセプトはどうであったのかと想像をめぐらせば、初めは古典主義のコンセプトに元づき丁重に伝統的な古典主義の神話をテーマとした絵画を素直に制作していたのだが、進みに進む内に絵画の自由性に目覚め、下手上手いを超えて、このサイトで多用する常套句の「美の霊界への参入」を体験したのだろうと思われる。自由というのはどの分野で実行されようとそれは「自分がないこと」に由来する。なんども言っているが、それは「愛」も「空」も同じだ。そこでまた繰り返すが、自分が無いと言っても、生きなければいけない私はいる。私と無我は同時に存在しなくてはならない真理的な矛盾なのだ。これは錬金術では「対立の合一」として知られている。次世代量子コンピュータでも従来の0、1の原理ではなく、0と1が重なった0nでもoff 何方でもでも無い記号が原理化している。ターナーも恐らくそれに近い東洋的な感覚をボンヤリと獲得していたと思われる。それは西洋では錬金術師の行き着くべき東洋的な境地だからである。

 

 Turner e-d01

 左図上「カルタゴ帝國の衰退」  1817年

 

 

 

 

 

 

 

 

 Turner e-d02

 左図上「ヴェネツィア」  1842年

 左図下「蒼馬の上の死」  1830年

 

 

 

 

 

 

 

 そこで私の「共時性の絵画」のコンセプトがターナーの獲得した自由にも似て「自分を超えて出てくる物事」であろうとする事を思うと、創作の思想や動機も、形、色と同じく外からやってくる、出てきたものである必要があると考えている。しかしそれはお告げのように何か神がかって声を聞くというような神秘主義ではなく、もっとハッキリとしたユーモアのあるジョークのようなものである。それを明確な客観的な証拠として作品化し表明する必要がある。ただ声を聞いたと言っても誰も信用しないからである。

 それは地口的タイトルで表される。地口は一種共時性的である。シンクロニシティーは内面(心)と外面(現実)の織りなすシャレであって、似たものに、過去と現在が合一する「デジャヴュ」がある。予言もまたイメージと未来が重なり合う奇跡なのである。そのように神秘のメカニズムが地口に近いものであることがわかるだろう。日本でも江戸時代まではこのことが理解されていて、近松門左衛門の戯曲などは地口の連続体によって文章が書き進められている。

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

 

 Turner e-d03

 左図

 パレイドリアの実例写真

 自然であれ人口であれそれらは人体として造形されたわけでは無い。特に自然物はその確率から神秘性を帯びてくる。

 

 

 

 

 

 

 

 最近 I T によるARTの制作ソフトが話題になっている。その小説は公募に応募されて入選し、フェルメールの新作もことも容易に制作されている。その中でも私の注目したのは古典名画の写真や普通の動画などをビットのタイルとして認識しているコンピュータは、そのタイルの配列を全く違う近似値の動物の形象などに読み変え、その絵画の背景や空に、書かれてない鳥や動物を出現させるのだ。これはアナログ的には「パレイドリア」という心理学的な用語で知られるメカニズムを応用したものであるが、それは人間は三つの点を顔として認識するというクセのような錯覚の一種である。私の制作もそれをもっと緻密にした原理であるとも言えるのだが、私の場合はその自然な紙魚の「偶然の一致」を問題、テーマとしている。しかしこのことは見る力が芸術でもあることを意味する。PCにより大小任意の点をランダムに並べて、ドットの紙魚の塊を作り、それを再度「パレイドリア・ソフト」で読み込み、具体的な形を出現させることは可能なのだ

 

 

 

 
 

 Turner e-d04

 左動画

 Google制作のIT画像ソフトが既製の映画に使われた一例

 

 

 我々の世代にはSF映画のエポックとなっている「ブレード・ランナー」は最近新作が制作されたようだが、そこで問題になっていたのは I T の自我性であった。

 I T・ARTは今のところ統計的な平均値をディープ・ラニングした結果に過ぎないのだが、それらを超えてI Tが全体の平均値を客観して、それらを革命破壊する新たなる新しい道を示し得るのかが、今後の課題だろう。

 ターナーの作品データを平均して今生きていると仮定する彼の新作をI T が作り得たとしても、そのデータの中の革命的作品は例外的な習作として統計されるだけで、恐らく本質的な認識はされないのだ。それは当時人間によっても同じことが起こった。

 それはなぜか?それはプログラム・デザインをする者が芸術を、特にその発明性を完全に理解していなければならないというジレンマによる。私は未だ芸術を完全に理解した人にあったことはない。それは芸術が有って無いようなものだからである。そんなものが本当にあるのかどうかも誰にも解らない。I Tに作れるのは「芸術のようなもの」だけである。

 そして人間も古代より「芸術のようなもの」を作り続けてきたのである。

 

 20171130

 

   
                     by  Mitsutaru Sorasima  201711    
                      

 

このページの音楽仕様

 パレイドリア 2017/06

シンセギター

by Mitsutaru Sorasima

 

参考文献

 

タイトル 編集発行
1 ターナー展 1986年 国立西洋美術館
2

[知の再発見]双書128 ターナー 色と光の錬金術

2006年   (株) 創元社
3 世界の名画2 ターナーとロマン派風景画

1972年   中央公論社

5

世界美術全集 18 ターナー

1977年   (株) 集英社