ウォーホールの糸 2002〜

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NO.-013

. ウォーホールの写真の作品をまたもや写真作品として大真面目に評論する

事はまんまとウォーホールの罠にハマってしまいます。

. 彼の絵画作品を構図とか色、技術や題材で論じた評論が空しいのと同じで

す。これらはコンセプチュアルなアートであって表面性ではないからです。

. しかし中には絵画作品との共通なテーマも見られます。

. 「死」です。しかしこれとて、絵画作品の骸骨や電気椅子、交通事故など

の死の題材は、ポートレート、バナナ、モンローといった我々の日常をその

まま持ち込んだものの変形に過ぎません。生きる事は死とワンセットだから

です。その題材に特別の思い込みは恐らく無いでしょう。

. 写真の作品ではもはやテーマは深刻に選択されません。少し面白いと思っ

た日常が、気軽に切り取られています。すでに撮っている時にリピートが考

えられていますし、そのためのむしろ完成されない構図を選んでいます。

. それにこれらの写真は白黒で、はじめから色は放棄されています。色につ

いての評価は拒否されています。それにより絵画より、よりストイックにコ

ンセプトが浮き上がります。

. 彼の絵画作品から技術的なもの、色、POP性(大衆好み)が取り去られ、

より骨だけの骸骨と化しています。最早、彼は日常を我々一般人のように

淡々と生きるだけであり、定年でリタイアした自称写真家のように「絵にな

ってない写真作品」をスナップしているだけなのです。ここにウォーホール

の知られざる「大いなる普通」があります。

. 写真は白黒で色が無く、日常的過ぎるものでなくてはなりません。すべて

は「糸」を主役にするためです。

. 例えば、これが白紙を縫っただけの作品であれば、それはもっとストイッ

クなアブストラクトにはなりますが、どこかで見たような芸術になってしま

います。日常的でなければなりません。日常が芸術に持ち上がる魔法でなけ

ればならないのです。

. それがデュシャン伝授の「レディーメイドの心」です。

. 写真を繋ぎ止める糸は肉を繋ぎ止めている骨のようでもあり、それは外注

の縫製屋に下請けされて縫い合わされ、どこか本を連想させます。

. 1ページの写真集なのです。本というものは立体です。見るのに時間性と空

間性がでてきます。これは立体物なのです。

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 マルセルの作品に「自宅のバスタブの栓」を量産した作品がありますが、

これは錬金術でいう「女王に対する王」であり、ヴァギナとワンセットのペ

ニスであり、バスタブのない栓だけの空しき独身者である「中ぶらりんな

栓」はどこか物さびしいユーモアを秘めています。

. これに対してウォーホールの晩年の「糸」は錬金術的には「繋ぎ止めるも

の」、「仲介者」としての「石」に匹敵します。これがなければこれらの作

品は芸術作品と成り得ず、ただのスナップ写真です。

. ウォーホールはまさしく「糸」により「芸術の骨」を提示したのでした。

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ウォ−ホ−ル写真作品部分

 糸の縫い目はプロの仕事である

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排水口 Marcel Duchamp

1964 直径7.5

NO.-014

. ウォーホールはもともと初期は画家というよりも映像作家であり、「動か

ない映画」というものを創り出していました。

. 今でこそカメラ据え置きの映像は日常的ですが、当時(60〜70年)で

は、映画はムービーというくらいで、動いてストーリーのあるのが当たり前

で「眠る人」や「エンパイヤ」の1時間も2時間も動かない映像は反映画であ

り、客はブーイングどころか「途中で食事に出て、帰って来てもまだ同じシ

ーンだった。」という話しは有名です。

. しかしこれは70年代のキネティックアートなどや、今のコンピュータアー

トにも言える事ですが、テクノロジィ−に頼ったアートの宿命で、時代が変

われば劣化して、よほどコンセプトが革命的で無い限り、「それがどうし

た」になってしまいます。今は単に一方向の高度化だけでは赦してもらえま

せん。

. 「インターラクティブ(相互方向性)」や「Webの瞬時世界発信性」が注

目されていますが、それもテクノロジーの改新であって、時代が進めば当た

り前のツールとして使用される事になります。それ自体は芸術の革新性では

ないのです。インターラクティブといったところで従来からの芸術が実験し

て来た観客参加型と少しもコンセプトは変わりません。

. 今はすでにもっと高度化したニーズにより「尚かつ面白い」でなければな

りません。

. 芸術の観客の欲望も進み進んで「高度な革新性を持ち、深く尚かつ面白い

もの」を求めているのです。

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. 「お客さん、それは贅沢というものですぜぇ。」

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映画「眠り」1966 WARHOL

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アメリカ人の茶席の床に飾られたローマ時代の兜

茶事はもともとインターラクティブどころか主客一如で客と主人が消滅する

NO.-015

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. まあまあ、そうは言っても現代の表現者は否応なくその課題に取り組ま

なければなりません。

. 現代の表現が技術の洗練から感情レベルの感動を経て、知的な革命性を

目指して進み進んで「上手くて、綺麗で、知的で面白い」である事を目指す

のに越した事はない訳で、デュシャン一派の「網膜的表現」を嫌った創作か

ら、ウォーホールがもう一度「極めて網膜的なもの」に戻って、それに徹底

したためにかえって逆説的にコンセプチュアル・アートになってしまった方

法論は極めて面白く、これからのビジュアル・アートの方向性を垣間見せて

いるような気がします。

. しかし面白いといっても、それぞれの人によってそれも様々で、技術的

な方向に感心のある人は「上手く人より秀でた技術のオリンピックのような

もの」に感激し、感情で対象を理解しようとする人においては美的でセンス

がよく、自分の内的な体験を引き出してくれる物語性のあるタブローに、ま

た知的感動に敏感な人は、理論的なオチの新しさに拍手喝采する訳で、人

様々で、沢山の感動を呼び起こす場合の作品はその三種の神器が同時に共存

していなければなりません。

.

. また近年では、クリストのような絵画の立体化が発展したインスタレー

ション・アートのように、インテリアのような表現で、バーチャルリアリテ

ィーの概念ともシンクロした、日本の茶道が秘めていたような体験型の表現

物により、観客に特殊な体験をさせ意識変革を促す方向も見られます。

. しかしこれなどは、最早その膨大なスケールにより作品製作技術という

よりも一種の政治性が必要で、誰もが制作可能という訳ではなく、そのスケ

ールは公園や巨大な地域にまで拡大してしまいました。

. しかしこの物理的拡大はさほど大きな意味はありません。「ゴミが綺麗

にまで持ち上がる魔法」である作品に感激した知性は、世界中のゴミがすで

に美を秘めている事を体得しており、その感覚的領域はすでに宇宙的スケー

ルまで拡大しているからです。

. その人の中ではシンデレラのカボチャはいつでも馬車になり、ホウキは

飛行器となりうるからです。

. さんざん「退屈だ。」とか「面白く無い。」と言われて来たコンセプチ

ュアル・アートの偉大なる発明と発見と面白さが実はここのところにあっ

て、コンセプチュアル・アートはその魔法の方法論を現代に明確に意識化し

たのでした。

. ですからコンセプチュアル・アートが面白く無いと言われる場合はその

ビジュアルとエンターテイメント性に於いて言われるのであって、一部の理

解者はそれを充分に面白がっていた訳です。しかしこれも時間が経てばその

大衆化の過程で充分表面的にも面白くも成りうるのです。コンセプチュア

ル・アートの実験は今終わったばかりで、エンターテイメント化はこれから

の課題だと思われます。

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. 芸術には伝統芸術という博物的領域の維持を目的とする領域があります

が、それも大事ではありますが、科学のように全ての科学者が前衛での仕事

を受け持ち、進化を目指している分野の事を考えれば、芸術も否応なく進歩

を目指すしかないのです。

 その流れを踏まえて次のステップを考えなければなりません。

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上、竜安寺石庭のコピーのダブルが壁に造形されている巨大な円管。シーソーと鉄棒で遊べばめまい、めまい、まためまい。

下、岐阜県養老運命反転地。 噴火口のような窪地に創られた心理的アスレティック

両方ともに荒川修作氏の巨大に拡大したインスタレ−ション作品

 

NO.-016

. ここ10年での科学技術の進歩で、誰もが仮想空間を体験し、作り出す事が

できるようになり、コンセプチュアル・アートの停滞期から新たなる方向を

それが指し示しているように見えました。しかしこれもインターラクティブ

と同じで芸術の中にあった秘められていた力でしかないのです。

. バーチャルリアリティーは仮想だからといって、にせものの表現という訳

ではありません。元々絵画とは偽の風景や人物が描かれていて、それを我々

に本物として体験させる装置であり、我々は今や、複製された写真や映像し

か見ないで、おおかたのものを評価しているのですから。

. これもホロニックな「小を知れば大が分る」的な方法論の別バージョン

で、「コピーを知って本物を知る」事なのかも知れません。現代(2006)の

バーチャルリアリティーの技術は元々持っていた絵画の本質をより精密にし

たに過ぎません。

. しかし「絵の中の世界へと入り込んで遊んでみたい」は古今東西の夢であ

り、それが現実化したのは技術的な大いなる進歩であり、表現の世界に新た

なる可能性を作り出したのもまた事実です。

モナリザが3Dのデータを持っていれば我々はモナリザの後ろへ回り込んで、

ジョコンダの見ているものを見られる訳です。しかしこれはもう絵画とは言

われません。むしろ彫刻やインスタレーションに近いものです。

. 絵画は現代芸術の実験や、科学の発展により、最早、静止画像での枠のな

かでの決められた定形的表現になって、伝統芸術のようなものになってしま

ったのです。

. しかし電子的な霊界ともいえるバーチャルリアリティーではなく、物質的

な霊界である作家の生々しい痕跡の表現も依然として存在します。それは現

場に行って実物を見なければ伝わらない現場検証のような体感の事ですが、

これが現代芸術から残念ながら削除された部分です。物質性、肉体性が低次

のものとして置き去りに去れました。いわゆる精神論へと偏ったのです。

我々は何時もどちらかの対極に偏る傾向があり、精神的に偏ればひと昔前の

インドのようになり、物質に偏れば日本のバブル期のようになってしまいま

す。

. 物質と精神は別次元の同じものの表現として共存していなければなりませ

ん。我々は物質のステージに居るのですから。

. 日本の書道はある意味でその人の精神の痕跡の芸術です。ここでもまた伝

統的な芸術の中に我々はこれからの芸術の行き先のヒントを見い出します。

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そらしま 2005年作

書 「帰雲飛雨」福島種臣(1828〜1909年 政治家)

NO.-017

. 元々絵画の始まりが、原始の洞窟画の個人の痕跡を残そうとする欲求から

始まって、それが様々な芸術や科学の出発点だった事を思うと「個人的痕

跡」は芸術の元にある表現欲求なのでしょう。

. 色々な発明や発見や精神的な影響力も目に見えない個人の墓標の制作欲求

なのかも知れません。ですから「日本の書道」の持っている一種の「肉体的

痕跡」は芸術が初めから潜在的に持っていた、自己表現の無意識な表出だっ

たのでしょう。

. それに「書」のすぐれたところはそこに偶然性という自然の力を導入して

それと共存しているところです。

. これは日本の芸術に墨絵の渡来した頃に定着した、禅のもたらした自然観

で、水墨画の「ぼかし」や「かすれ」といったテクニックは人工的に偶然性

を作り出す「対立物の合一」(「錬金術はやわかり」参照)ですし、その方

法論は室町時代以降の陶芸や、特に禅の書などの中で発展して来ました。

. この作意と偶然が解け合っている表現は極めて日本的なオリジナルで「自

然との共存」をすでに秘め、ぼかしや滲みの美を意識化して芸術化し得たの

は非常にモダンアート的なのです。

. しかしなぜ我々はその肉筆の個人的痕跡に一種の感動を感じるのでしょう

か。それはその作品を制作した人が、今ここにいると感じるからではないで

しょうか。それは「霊の出現」であり、この事はアイドルのサインや歴史的

な人物の筆跡でも同じで、その物的作品が一種生きているという感覚を引き

起こすからでしょう。

. これは作者のオーラが焼き付いたようなものであり、モダンアートから極

力取り払われた肉体的なるものなのです。我々はもう一度この肉体と知性が

解け合っていて、尚かつ新しい作品を創り出す必要があります。

. つまりそれは生命力の事ですが、そうはいってもそれはスポーツしている

肉体を活き活きと描く事ではなく、作品自体が生きていて、鑑賞者にアクシ

ョンする力があり、それ自体が生命であるという意味です。

. 芸術作品が「新しい生命」であるという意味です。それは科学がすでに生

命を創りだせるところまで来てしまった現在(2006)において、当然の芸

術の帰着というべきでしょう。

. 科学の定義する生体的生命とはまた違った芸術的生命です。それは霊的生

命力でもあります。

. デュシャンやウォ−ホール、コンセプチュアル・アートから削除された生

命を取り戻す事は、プロレタリア・アートのように労働者の生活を描く事で

も、自然主義のように自然の風物を描く事でもなく、そうではなくて死物を

生き返らせる力を作品が持つ事で、その再生力はコンセプチュアル・アート

が発見し得た方法論と、原始から芸術が持っていたアニミズムの力の融合で

す。アートは最早、使用されるメディアは絵画でも、写真でも、立体でもよ

く、映像でも構いません。その中で自由に「新しい生命」を獲得すべきなの

です。アートの鑑賞者を治癒し再生させる力は自然力であり、包み込む海で

す。それは魔法が始めは反自然から出発し、最終的に自然力に行き着くのに

似ています。

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タッシリの壁画内の手形
書 聖徳太子 「衆生」

書 空海 (部分)
森 進一 サイン

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