ウォーホールの糸 2002〜

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NO.-017

. 「アートとは何か」と言った場合のアートには「すぐれた芸術」と言う

意味が含まれています。すべての表現をここでアートといっている訳ではな

いからです。

. その「すぐれたアート」とはなんでしょうか。これは古今東西を広く俯

瞰してみても、そのすぐれたといわれるものの共通点を検証してみると、

「対立物の合一」というコンセプトが意識的であれ無意識的であれ含まれて

いるように私には見受けられるのです。

. 「対立物の合一」とは別書「錬金術はやわかり」で詳しく検証したので

注釈はそちらへ譲るとして、とにかく「書」の解説でも明らかなように、人

工と自然が溶け合った表現、ウォ−ホールの絵画でいえば、偽物と本物の絵

画が溶け合っている事で、一般によく使われる「この作品は生きているよう

にすばらしい。」は、人形が生きているようだったり、モナリザが活きいき

している様子だったりして、死んだ物である作品と生が融合している一種の

シャーマニズム、アニミズムへの賛辞に他成りません。これはフェティシズ

ムの原理で、その生と死の合一だけでなく、あらゆる対極が一体化して表現

されていれば、それは「対立物の合一」です。

. これを外さなければあなたの芸術もすばらしいアートに成りうる訳で

す。

. みにくいものが美に成っていれば、現実と夢が融合していれば、男と女

が超越されていれば、それだけでもうアートですし、それは一種の完結性、

マンダラなのです。これはユング言うところのセルフの発見でもあり、「セ

ルフの表現」こそが芸術であり美であるといえるのではないでしょうか。セ

ルフは対極を超えた愛であり、空性な無我です。

. 故にそれは「平等であり、自由の素」です。この「内なる祭壇」は今で

は「神とのケータイ」と言ってもいいでしょう。

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文楽 本朝廿四考の一場面 

きつねが憑いた八重垣姫。人形浄瑠璃は歌舞伎を意識して、人間にはできない動きを追求していく事になる。歌舞伎は必用にその動きを「人形振り」によってまねようとする。

そらしま作 写真作品 2006年 きつね NO.3

心霊写真との違いは狐を撮ろうとして狐が出て来るところにある。思ってもみないも者が出て来てしまうのではない。これを共時性写真といってほしい。

NO.-018

. しかしそうは言っても、現代の諸観念が複雑に拡大しているように、芸

術の観念も特殊化しており「尚かつ、我々の精神に新たなる価値をもたらす

魔法」でなければなりません。つまり「新しい美」でなければなりません。

. それは始めはみにくいものとして映る可能性があります。ゴッホしか

り、ピカソしかりです。しかしその美が大衆化して定着した時、その実験性

は終わりを迎えます。

. 印象派の「光りの天国」は今の日本人には大変好まれるビジュアルで

「明るいユートピア」は浄土教の多い日本の仏教徒に、その浮世絵のような

明るさと単純さが共感されて、その美は定着しました。それはある意味で完

結した、全体性、一如性であるユートピアです。

. しかしその中でもゴッホはウォ−ホールがポップアーティストを装いな

がらむしろコンセプチュアルアーチストだったように、印象派の中でも「光

りの追求」に留まらず、むしろ無意識界へと足を延ばそうとしています。

. ピカソもまた、フォーヴィズムをはみ出て「子供の自由さ」の中に、

「原始の造形」の中に、魔術的無意識の力を予言しています。それらはシュ

ールリアリズムを秘めているのです。

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ゴッホ作 読書する女 1900

この入り込み方は観るものをトランス感へと誘う。この絵は最近(2006)ササビーズのオークションに出品された。これはゴッホの作品の中でも知らざれる名画なのだ。

.

 ピカソ作

子供の絶対自由である天真爛漫と霊的な影絵

NO.-019

. ですが彼等先人達も、美というステージから離れてそれらの仕事をした

訳ではありません。

. 美は感覚レベルの体感であり、理論化、言語化する事はできません。美

に出会った時には言葉を喪失し、光りのようなものに我々は包まれます。美

しい夕焼けに理論はありません。美は、自由であり、平等で平和です。それ

は社会的地位に関係なく訪れますし、美に包まれている刹那に人は犯罪をお

かしません。綺麗な花に感動しながら人は人を刺し殺せるでしょうか。また

美に捕らえられている人は、肉体を超えて自分が拡大して行く自由を瞬時で

すが味わいます。

. 大宇宙の星雲が眺められる所までやって来た我々は、そこにみにくさを

見つける事ができるでしょうか。あるのはオパール色に輝く光だけです。あ

えて見つけるとしたらその漆黒の暗闇の部分でしょう。美もまたみにくさと

ワンセットで美足りうるからです。しかしそこではもう、暗黒も美を生かす

片割です。密教の「あらゆるものが大日如来の表現だ。」といわれる世界が

そこにあります。「神は美だ」といわれる所以です。

.

. 芸術は「新しい美の創造」という仕事を担っていますから「美のステー

ジ」を降りる訳にはいきません。始めは美にみえなくても作品は美に変容し

なければなりません。「過激なテロリズム」だけでは優れた芸術には成り得

ません。

. 芸術は原始のシャーマニズムの要素「美と医と技」の美の部分が拡大発

展した領域だからだと思われます。

. 芸術はいつの時代になっても「対立物やその時代を超えた新しい美」で

ある事です。それには終わりがありません。「絶えず変化する事、無常」こ

そが真理だからです。

. 

. 

 

水蓮 夜 1922〜1924年 モネ作 

蓮池の写生は写実を超えて抽象画である。虚と実が融合する。

1985年 アラン・マッカラムとラリーシモンズ合作

極小フィギュアの膨大な拡大写真作品。なにか日常品も拡大すれば霊的威力を発揮する。

NO.-020

. そしてここで我々はやっと「今、新しいもの」は何かを考えるところま

で来ました。

. 芸術が感覚的感動をダダイズムなどにより破壊され、シュール・リアリ

ズムによって夢へと目覚め、コンセプチュアル・アートにより知的な考えオ

チを思考し、バーチャルリアルにより仮想現実を体感してきた、今、行こう

としているところは何処なのでしょうか。

. それは私には「体感する霊界」のような気がしています。もちろんそれ

は「お化け屋敷」の事ではありません。シュールリアリズムの夢日記の創作

のようなもので終わってしまった実験を一歩進めて、無意識を現実に再現す

る装置です。その作品がある事により日常に絶えず純化された無意識が流れ

出てこなくてはなりません。

. それはシュールリアリズムの浅瀬の無意識、個人的妄想のフロイト的無

意識ではなく、集合無意識の神話性、民族性をも超えた彼方の、普遍的無意

識です。それは最早個人を超えており、当然、一般にいわれるオドロオドロ

しい幽霊の事などではありません。もっと知的で理性の元となっている中心

です。

. 芸術や哲学の探究は「普遍的なるもの」で、それは「個人を超えたある

もの」でしょう。

. それは無意識と言う霊界の中でも中心にあるコアの現実での表現です。

. それを踏まえた上での新しい表面性が模索されます。表面性はまず始めの

入口になるものであり、無視されるものではありません。表面に留まる観客

もいれば、中へと入場する観客もいますから。表面性だけがコピーされアレ

ンジされて大衆化、ファッション化する事も度々起るのです。それはそれで

切っ掛けとしなければなりません。

ウ−ライとアブラノヴィッチ 1982年

ドイツ・カッセル・ドキュメンタ7で21日座り突ける瞑想的パフォーマンス「Nightsea Crossing]

クリス・バーデン A Tale of Two Cities 1981年作

これは氏の巨大な箱庭であり観客もそのフィギュアとなる。氏の無意識の中へと押し込まれる。

NO.-021

. ヴィジュアルがここまで進んで、CG(コンピュータ・グラッフィクス)に

よってあらゆる視覚が安価で行われるようになると、我々は最早、ヴィジュ

アル的には何も驚かなくなっています。現代(2006)ではヴィジュアル・イ

ンパクトといったものには、なかなか出会わなくなって来ました。それが絵

画が死んだように見える理由です。

. それは即デザイン的インパクトの不毛にも結びつきます。アートの衰退は

デザインの衰退に直結し、文化の停滞、経済の衰弱にすぐに反映されます。

. あっても無くてもいいと一般には思われているアートは実は経済、我々の

生活の種になっています。それは霊界と現実がワンセットで世界であるよう

に、霊的なるもの、無意識的なるものの現実化なのでしょう。

. 原始、中世世界ではそのような事はまだ起っていませんでしたが、近代以

降では現実は霊界との距離を近づけているのです。電脳といわれるように電

気的霊界のためにです。商品はかつての機能性を超えてファッション的イコ

ンになろうとしています。

. 哲学者ベンヤミンが資本主義を「救い無き宗教」と定義している所以で

す。

. ゆえにアートにおいてもヴィジュアルな要素は非常に大事で、我々も何と

かして新しい視覚的雰囲気を見い出さなくてはなりません。しかし今や新し

く見える視覚は見当たりません。みんな何処かで観たようなもののポストモ

ダン風な「形式の寄せ集め」か、POPアートの亜流のようなコミック風「大

衆との和解」形式です。

. ウォ−ホールの遺作の写真作品は最早表面的にはPOP ARTとは言われない

日常のアート化でした。

. しかしそのコンセプトはしっかりPOP ARTと共通してます。POP ARTの

コンセプトも「日常のアート化」だったからです。それが表面性を意識して

表現されたという事でしょう。

. 日常さえも少し視点をかえればアートに成りうるところで生きている

我々現代人の次の一手は簡単なものではありません。しかしそれもアルタミ

ラの洞窟画の牛のように、最も日常的なる素材のアート化で、すでにそこに

はPOP ARTが内在していました。すべては始まりにあり、「始め良ければ

終わり良し」でポストアートもすでにそこに予言されているのかも知れませ

ん。

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. 日常的である事、リアルであることは現在を表現しています。それは今

を生きているという事です。禅のコンセプトも「今を生きる」事でした。黒

沢明監督作品「生きる」のように、我々の日々は過去、未来をあれこれ悩ん

でいる優柔不断な暇は無く、反射的にNOWを処理して行かなければなりま

せん。ぞれは禅の方法論でもあります。

. そこでもう一度、書の解説のところで問題になった生命力を反復して検証

して見ましょう。「芸術作品が一つの生命」である必然の方向の一つとして

増殖性があります。「アーリュ・ブリュット」や「アウトサイダ−・ア−

ト」と言われる精神障害者や知的障害者の芸術には溢れんばかりの増殖性が

見られ、その終わり無き創造と妄想は、作品が作品を生み出して行く豊饒の

海です。ゴッホはそのタイプで、彼は常人と狂人のグレーゾーンぎりぎりの

ところを往ったり来たりしています。このエネルギーが現代芸術から失われ

たものです。

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ジャンヌ・トリビエ(1869〜1944年没) 

普通の主婦だったが58才の時の交霊術との出会いを切っ掛けに精神障害が発病、以後刺繍による作品を制作し続ける。

布 50×24.5cm

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セヴァ・セクリッチ(1902〜1989年没)

クロアチアノ農夫の家に生まれ貧しい一生を送る。年金生活者になってから突然作家宣言をして作品を創り続ける。

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アドルフ・ヴェルフリ(1864〜1930年没)

「地球の洞窟一覧」部分1909年制作

25.000ページにも及ぶイラスト入り空想世界旅行小説を制作したスイス人。三度の幼女暴行未遂の後、精神分裂病で入院隔離され、死ぬまで病院で制作。そこの医師達のコレクションが切っ掛けで今は世界的にかなり有名である。

NO.-022

. 生命エネルギーをそもそもそのまま体現しているのは自然です。

. デザインとしての自然はすばらしいデザイナーであり、永遠に我々のデ

ザインの師です。それは機能美ともいえません。どう考えても不必要な派手

さや、不要な装飾性を見せるからです。人工的には不可能な発想がそこにあ

り、我々の目を虜にします。その形態は造形からも自由でデザインを超えて

います。

. 人工の色彩といえども、およそ自然にないものは無く、蛍光色からメタ

リックまで、ありとあらゆるものが揃っており、古代人も目を見張りながら

それらの色彩を見つめていた事でしょう。

. 自然の形態は完成でも不完全でもなく、そこにあります。

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シッタカ貝についたシャコ貝、それに付いたフジツボ

すべてのものは依存する。「人生いろいろ」ではなく、シッタカが捕獲され食べられる時、シャコ貝もフジツボも死ぬ。袖が癒着してしまった多大な縁である。

. 絵画という形式や彫刻という形式、また画廊というメディアは終わり迎

えるかも知れませんが、芸術には終わりはありません。アートが終ったよう

に見えるのは一時的休息にしか過ぎません。それは実用に依存しているから

です。実用を支えるための影としてなくてはならないものです。実用がある

かぎりそれは存在し続けるでしょう。

. 「芸術生命」はアート・ウィルスとでもいうべきものであり、増殖し感染

して人間を媒体として生き延び、我々の内的世界、霊界を拡大して行くでし

ょう。

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. アートについて長々とそのコンセプトの変遷、東洋と西洋の比較などを書

き連ねてきましたが、後はそれぞれの現代の作家達が、オリジナルなものを

生み出して行くしかありません。表面性は形式は規定され、方向づけられる

ものではありませんし、オリジナル、クリエイティヴとは新しい世代の子供

を各自が産むことに他ならないからです。それは次世代の「芸術生命」にリ

ンクして行きます。

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おわり(200605)

...


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. ここまで読んだ美術評論家は夜も8 時をまわったのに気がつき、感想文

の依頼の締めきりにはまだ時間があると思い、食事も兼ねてバー雅子へ出か

けるために立ち上がった。

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ニシキウミウシ

次ぎの新幹線のデザインにどうか?これをそのまま巨大拡大するだけで環境を変革する作品になる。

キンモンカメコノハムシ

これはマック製品ではない

小茂田青樹(Omoda Seijyu 1891〜1933年没)

「虫魚画巻」1931年作

バランスを崩さず、その中での自由。清冽する鯉と乱調する蘭鋳。

松井冬子(1974年〜)

「浄相の持続」2005年作(30cm×80cm) 

屍体の美である。松井は己のアイドル性を作品のグロテスクで補強する。しかし感心があるのは精神病理的テーマのようだ。

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